重助、甲斐なくついに異国の土となり、伝蔵ら開墾す

弘化二年(1845)重助はかつて痛めた足が元に戻らず、ついにびっことなった。
その傷から来るものであろうか、図らずも重度の下痢を発症した。幾日もせぬうちに治りそうにない様子となった。

オプニカツカは看病の費用をくださり、様々に心を砕いてくれた。
ある時、オプニカツカは伝蔵、五右衛門に、
「重助を治療し、命を助けたいと思うけれど、今は私は医療を行わないので薬がない。ここから二里半ほどの所に村があって、コーラウという名医がいる。あなたたちは重助を連れてそこへ行き、助けてもらいなさい」
という。そこで、背負子を買ってきて、オプニカウカに礼をし、重助を載せ、コーラウの元に急いだ。
まだ一里も歩かないうち、前から馬を挽いてくるものがいる。伝蔵らを見て頭を下げて言うことには、
「私はコーラウの使いで、ナプニカウカの連絡により、あなた方を迎えに来た」
と言う。
三人はこれを聞き、思いも寄らないことなので、大いに驚き喜び、重助はすでに輿の上で休んでいるので、伝蔵は馬方に肩代わりをしてもらい、自ら馬に乗ってコーラウの所に至り、プープンという人の家に宿泊した。
プープン一家は、弟をテツハニと言い、妻を連れてプープンと同居している。伝蔵はすぐにコーラウの所に行き、カツカの言伝を伝えると、既に連絡があったと即時に許諾してくれ、治療を行ってくれた。
医師はていねいに、情篤く、治療の工夫に精通していた。

また、村の中にアメリカの寺があり、その名をハリケヤといった。主人をミシハレカと言い、元はホーランド号船長ウィットフィールドの隣人であった。その縁を持って、丸薬など様々な薬をもらい、その他のことも端々に至るまで煩いをとりのぞいてもらった。

弘化三(1846)年丙午の歳、重助はいくつもの良薬、百万の介抱の験なく、オアホーの正月上旬、コーラウにて三十一歳で一生を終えた。
伝蔵、五右衛門も、力と頼む重助を失い、泣き悲しむことは限りなかったが、この土地の法に倣って、重助を棺にいれ(日本と変わったところがない)、寺の外の一村カンネオヱという所に葬った。ミシハレカが来て、経文のようなものを詠み、引導を渡してくれた。懇切なことは限りがない。
それから五右衛門はハリケヤ寺に住み、伝蔵はプープンの家にいた。

その頃、島の王キニカケオリョーハが年ごとに全島を巡覧するということがあり、ちょうどその村に至り、大臣ツツナハワもこれに従いやってきた。そして、プープンの家にで会合した。

たまたま伝蔵を見て、王は彼の安否を問い、ただ今はどのようにして日を送るかと尋ねられた。
伝蔵は、その情の篤いことの程を、拝み謝してこう言った。
「この春から重助が死去したので、今は所在なく過ごしており、また、仕事を得ることも出来ない。もし許されるなら、この地は荒れ地が多いので、私達がここを開発することの免状を与えてもらいたい。よろしくとりはかっていただけないか。」
と。
ツツナハワもこれを許諾し、その場所に土地の人を呼び集め、彼らに指揮して帰っていった。
彼らは、皆、力を合わせ、重助の墓から200mほど離れた海の近くに小屋を造ってくれた。
また、近いところに畑も少しもらい、草地を開き、大芋、甘藷、黍、粟、瓜類を栽培することとした。

元来この地は最近まで耕作していたので、一名でも人を増やして土地を開発することが望まれたので、年貢もなく、作るのもまた自由である。(十五歳以上の男子は、ハスダラ1/2一枚、女子はコワダラ1/4一枚の税金があるといえども、伝蔵達はその口数に数えられていないので、それを納める命令を受けることはない)

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