伝蔵、藤兵衛・安太郎に会うも、涙の別れとなる
外国では、七日七日にその地の寺院で「ションレイ」という祭礼をする。(航海中でもこれは止めない)
午前十時から正午まで群衆が寺院に集まり、住職は壇を設け、「タース」という小麦粉を油で練った餅を供え、みんなに向かって説教をする。
その説教は僧侶のようでもなく、多くは国の法令を読んだり、正しい生き方諭すものである。
この祭礼は、たいてい一ヶ月に四度ある。日本の仁、義、礼、智、信にあたるようなもので、人はみな仕事を休み、遊ぶ日であり、門を閉ざして歩き回る者もいない。
ションレイの翌日を、ポアカイと言い、二日目をホアルツ、三日目をポアコル、四日目をポアハア、五日目をホアアリマ、六日目をホアモロロという。そして、七日はションレイに返る。これを四周したものが一月である。
だから、給金などの類も、四ションレイすれば与えられるのである。九月、十月にこの祭礼がある。
伝蔵はあるとき、アメリカの船が日本人を二人乗せ、サソーハヲホーに碇泊していると聞いた。(島の子どもが食物を商売するために、小舟に乗って船舶に行き来する。だから、そのようなことがあれば彼らから伝わるのである)
港に行き、上陸をしている人がいたので、どこの船かと問おうと思って、歩くに任せて埠頭に出たとき、たまたま巨船からボートに乗って来る人がいた。
それが日本人のように見えたので、声をかけると、彼もまた伝蔵を見て、急ぎ走り寄ってきた。
「あなたは日本人ではありませんか」
「私は江戸の安太郎という者です。」(歳は二十歳程)
「荷を満載した船で、船員八人と陸奥から江戸に帰るとき漂流し、海の中にいることは一年程でした。米はなくなり、様々に心を砕いて食べ物をえようとしましたが、海の中では何の工夫もできませんでした。天の助けか、マグロの群れにあい、これを釣って干し肉として食べたけれど、いつまでも続くわけもなく、ついには六人が飢え渇いて命を落としました。藤兵衛と自分だけが生き残り、アメリカの捕鯨船に助けられ、死人はそのまま船と供に捨て置き、その船に乗ってここまできたのです。今、あなたに会えたのは天の恵みです。急いで藤兵衛にこのことを聞かせたい。」
と、牛肉を少し持って船に帰った。
少しして安太郎は、藤兵衛を(三十歳ほど)を伴ってきた。
頭を下げ、礼をし、二人は伝蔵の家に来た。藤兵衛の言うには、
「私は船頭であり、妻と子ども三人おります。私はこの三人の子と遊ばなければなりません。今乗っている船は日本に帰る便ではありません。フランスの船で中国に渡るものがあるので、船長に頼んで、その船に乗せてくれるよう頼みました。あなたたちはよくこの国の言葉を理解しているから、あなたが、もし、その船に乗ろうと思うなら、行って頼んでみてはどうだろうか。」
こうして三人はフランス船に行き、船長に頼んだが、船長は、
「既に二人を許しているので、これ以上加えることは出来ない。」
と聞いてくれない。
伝蔵は、
「運賃さえ先に与えれば、必ず聞いてくれるであろうに、金もないことなので、どうしようもない。」
と帰ろうとした。
藤兵衛らはそれを押しとどめ、餓死した六人の着物で、京縞で作られたものを出し、金に換えようとしてくれた。
しかし、日本の服が異国で着られることもないので、これを買う客はない。
更に、船長に乗船を頼んだが、聞き入れられず、ついに、再会を期して、涙ながらに別れ家に帰った。(伝蔵が船を訪れたのは数回である。食事などをすることもあった。船のコックがこれを怒ったことがあったが、言葉が分からない振りをした)
それからいくらも立たないうち、藤兵衛らはプランス船に乗りかえ、埠頭を発った。
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