筆之丞、善助に会い、土佐漁民大いにかつをを釣る

天保十三年(1842)「ナアホー」の五月、日本の国、摂津兵庫、年齢は二十一、二歳の善助という人が、かしきを一名連れ、筆之丞を尋ねてきた。

「私どもは、先年、十三人が阿波から江戸への途中、暴風に流され、スペイン船に救われました。アメリカに行き、十一人は木こりを職業とし、私達はある富貴な家に寄宿しました。この家は多くの洋船をつなぎ、店を開き、広く商売をしておりました。私は、かの国の人情や成り行きを知るようになり、言葉も少しは通じるようになって、文字も少しは覚え、算数や簿記などで手伝いながら日々を送っておりました。そのうち、主人が、私には三人の娘がいる、好きに応じて一人を嫁にするとよい。この地に留まれば、命が果てるまで見捨てるようなことしない、と勧められたのです。」

「けれど、もとより帰朝しようと思い込んでいたので、主人の意に沿うことも出来ず、終に固辞しました。」
「たまたま中国に行く貿易船がアメリカから来たので、主人から十三人のうち私達五人のために乗船を頼んでくれました。だから私達は、それで中国から帰国しようと思ったのです。」

「思いがけず、その船が入港したおり、ここに日本の人がいると聞き、謁見しようと上陸したのです。他の三人はなお船の中におります。」

「しかし、はじめ船に乗るときに、前金で、一人銀百ドルの運賃を定め、船長から賓客のとして待遇すると約束されたのに、最近になって彼らは約束に背いて、ほとんど、打擲されるほどに体を酷使されるようになりました。」

「あなた達はもし帰朝しようと思うなら、我らと供に乗船しすればよい。たとえ、一人でも、日本人が助かるならば、私にとってこれより幸いなことはありません。」
と、親身に語った。

西宮永住丸、善助、初太郎は長崎に帰国した
伝蔵が思うには、
「この便で善助と帰朝できるなら、これが一番よい。」
そこで、善助の言うままに官署へ願い出た。官吏は短い手紙を書いてくれ、船舶に問い合わせてくれたが、船長はこれを許諾しなかった。
善助は、気の毒なことであると、思い通りにならない気持ちに任せて、
「残り八人は、なお、イシバニシにおり、もしその地に行くことがあれば、哀れみをもってやってくだされ。」
と供に別れを惜しんだ。
伝蔵達は思い立った願いが叶わず、善助に別れた後は、ただ、もう何をすることもなく、遊びに行くくらいのものであった。
ある時、なぐさめに、小さな漁船に土地の人、七、八名と一緒に近海に出た。
日本で使ったときのような長い竿を使って鰹などを釣り、思ったよりたくさん釣れたので、市場にこれを売ったところ、オアボーの人たちは、伝蔵達が一本の竿を以てたくさんの魚を釣ることに感嘆した。

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