万次郎等、ようよう帰朝船上の人となる

諸々の準備も全て終わった。ボートに荷物を積み、本船に持って行き、十月下旬、十八名でオアフ島を離れた。舵を北西に転じ波を破ることは三十余日ほどであった。

四年辛亥歳(1851)元旦、北緯二十五度に来たとき、フィッツモアは万次郎を呼んで、
「あなた達は中国まで行ってくれるかどうか。」
と尋ねた。
万次郎は、
「二人をおろし、自分一人でいきましょう。」
と答えた。すると船長は、
「二人がもし船に留まるなら、あなたも留まるだろう。しかし、あなた達のために、船員の欠員のことは我慢しよう。」
と、懇切な言葉をかけてくれた。
そうこうしている間に琉球から十里ほどに近づいたので、早く船を寄せようと騒いだが、陸の方から風が吹き、翌日、正午の頃陸地から三里ほどに近づいた。
フィッツモアは三人に向かい、
「琉球国は狭い島であり安心して上陸できる。」
と下船を促した。

万次郎は寅右衛門にこのことを伝えようと急いで手紙を書いた、
『オアフで別れて後、よい風を得て、今日琉球に上陸する。この上は日本へ帰ることもまたできるだろう。このように容易いことだから、あなたもまた必ず船に乗って帰朝されるよう』
と、封印し、アメリカからオアフに来る吏員のサミュエル(シャムーヱル)という人に託した。
フィッツモアはじめ、船員一同に別れを告げた。フィッツモアは地図を出し、万次郎を呼び止め、地図の中の琉球を指し、
「ここから向かってはいけない。ここへ向かわなければならない」
と、その位置を教えてくれた。さらに、
「万一、上陸できないときはまた本船に帰ってくるように、私は船を止めあなた達の安否を見届けよう。」
と語ってくれた。

万次郎はこれに礼を言い、菓子、蒸し餅など食べ物をもって、梯子の方に行くと、伝蔵、五右衛門はすでに船を下ろして、乗船していたので、直ちに船を飛び降り、帆を開いた。

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