万次郎等、紀州寅吉一行と別れ、別便を探す

漂巽紀畧第四巻

川田維鶴撰

万次郎は傳蔵、五右衛門を促し一緒に帰る

嘉永三年庚戌年(1850)八月下旬、万次郎はオアフに上陸し、先に寅右衛門に会い、傳蔵、五右衛門は五里程離れたホノルル(ハナウリウリ)というところにいると聞いた。万次郎は彼らを招き寄せ、四人で集まった。
万次郎が帰国の意志を語ると、傳蔵、五右衛門はこれに同調し、早くその方法を探ろうと言うのだが、一人寅右衛門だけは、
「伝蔵、五右衛門は先に遠くまで海を渡り、八丈まで至ったのに、とうとう帰ることが出来きず、またここに帰ってきてしまった。命を賭けてまでそんな苦労をするよりは、もはやこの地に住み慣れたので、このまま歳を重ねこの地に没してもかまわない。」
と同調しない。

三人は翻意させようとするが、寅右衛門は取り乱す様子もなく、また、考えを変えることもない。
どうしようもないので、ついに寅右衛門はこの地に残すことになった。

それからは三人で相談した。
もし、船便があって日本に到着するときには、琉球国が日本の南部にあるから、帰国の際、上陸するのに、この地より適切な土地はない。もし、船から琉球が見えたらボートに乗って渡ることが最良である。
自分は金山で財産を作ってきたので、ボートの丈夫なものを選んで買おう、と大円銀百二十五枚(ドル)で小舟を一艘に、併せて船具一切を購入し、毎日船便を待っていた。

九月下旬、アメリカ船が入港し、日本の人がこの船に乗っているということなので、すぐにこれを訪ねた。
紀伊日高天神丸(天寿丸)の船頭寅吉(五十歳)以下、菊次郎(三十四)、市次郎(三十六)吉三郎(二十五歳)、佐蔵(十九歳)の五人である。
彼らは、はじめは十三人で紀伊の蜜柑、漆器を積んで、江戸に行き、米三百石、干し鰯数百篭を積み込み、その帰路に相模沖から漂流した。
南南西の方角に流され洋中で苦しんでいるところをアメリカの船三艘にであい、八名は二手に分かれた。二艘は中国へ送ってくれると言うことで、分かれた我々五名は、そのうち一艘に助けられた。この船が中国行きの船なので、これに頼んで乗ってきたのだという。

伝蔵等はこれを聞いて、
「これはまことに天に采配だ。共々に帰国しよう。」
と船頭に頼みに行って同船を約束した。

寅吉達も大いに喜んで、一同仲むつまじく付き合おうと、共に困苦の話しなどをした。
そうするなかで、伝蔵は先年あった話しをした。
「兵庫の善助、江戸の藤兵衛という人がここに漂泊してきて、互いに思いがけない対面をした。みな仲良く一緒に帰国しようと約束したが、いずれも船頭の許諾がなく、つらい別れになったが、この度こそ思いを果たさなければと喜んでいる。」
と。
寅吉はこれを聞いて、
「その兵庫の善助という人は元は紀州藩の生まれで祖父の代には藩の武士であり、善助の代になって身を落として、兵庫の商人高田屋嘉十郎という人の親類である某かの船頭になり、その漂流から帰国した頃、たまたまその伯父である人が亡くなった後であったが、善助はその伯父の家を興すべき人であったので、伯父の八十石の扶持を譲られたということがあったと、私は、国にいた頃聞いたことがある。」
と話した。

万次郎は、アメリカにいたとき、桶の作り方を学んだので、船の人達のために壊れた桶を修復しようとしたが、その賃金の多少が原因となり、遂に船員と争いになり、乗船が難しくなってしまった。
伝蔵たちは万次郎を残してこの船に乗ることは人情のないことであるので、船頭に向かって寅吉等五人のことを頼み、挨拶をして別れようとするのを、寅吉達は大いに驚いて、その仲直りをはかったけれどもそれは叶わなかった。

船は十月中旬まで逗留し、仕方なく別離を惜しみあい、またの再会を期そうと言い合ううち、ついにもやいを解いて出帆した。

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