マン、三年の捕鯨を終え、ハーヘーブンへ帰郷す

十月、オアフ(オアホー)の国フーハッホーに着いた。たまたま、日本人が一人、ここに住んでいると言うのを聞き、行ってみると寅右衛門であった。
二人で元気であることを祝いあい、互いのこれまであったことを終わりなく語りあった。
筆之丞は名を伝蔵と改め、ここに住んでいるが、重助は昨年正月に死去し、兄弟は悲しんだことや、その十月に、伝蔵と五右衛門は、ウィットフィールドの力によって捕鯨船に乗船し、帰国したことを話した。
二人で、人の世で何が起きるか分からないと嘆息し、別れを告げて船に帰ると、そこへ漁船が入港した。その船に日本人が二人乗船しているというのを聞いて、急いで尋ねてみると、それは伝蔵と五右衛門であったので、お互いに驚き喜び、元気であることを祝いあった。
「何のためにまた帰って来たのか。」
と問うと、二人は涙を流し、日本の近くに至ってから、八丈島、蝦夷地でのできごとを話した。

それを話しながら、ただ、三人は袂を絞るより他はなかった。

二十日ほど碇泊し、再会を期しつつ伝蔵らと別れた。
十一月上旬、オアフを出航し、舵を真南にとり、裸島沖で鯨を捕り、北西に転進、また真西に向かって走った。
嘉永元年(1848)二月、ニューギニアに係留した。
この頃から、船長アレンテペシの様子がおかしくなり、その乱暴がひどいので、これを鎖で繋ぎとめることになった。
ルソン(ルジョン)国、マニラ(ムネラ)には、アメリカの領事館があるので、船長をここに託して本国に送り返すことにした。
四月下旬グァム(ギューアン)を出港した。

このように世界の国々は広く四方に航海して、互いに交流することがあるため、万一の遭難や、今度のような問題があるとき、うまく事が運ぶよう、あちこちの港に小さな領事館を設けている。

かつてニューヨーク船が江戸へ来航してこう言ったことがある。
ここに領事館を置かせてくれるよう願いでたけれども、聞き入れてもらえなかった。そのため、一隻を先に帰した後、アメリカは本国へ報告に帰り、後日、数隻を伴って再び来るた言ったのであると言ったという。そのことが幕府へも伝わり、防御の備えをしたと聞いた。
その後、オアフでフレンド(フレン)という新聞に、このことを書いているのを見ることが出来た。
この新聞が、日本についての書いてある情報は、最も詳細である。
程なくルソン海に着くと、風が起き、波が立ち、その勢いは船を浜へ打ち上げようとする程であった。みんな苦労をしてようやくマニラ港に着いた。

マニラは、この辺りの国の中心地であり、家は鱗を並べるようで、家の造りは全て立派である。
エイケン船長に代わり、航海長を船長として七月上旬、マニラを出港し、この海で鯨を捕り、台湾沖から琉球沖を経て日本近海にいたって鯨を捕った。
南に向かって、十月、グァム島に到達。そこで三十日程停泊し、十一月に出航、赤道を下に望んで、ニューアイランドシー(ヌーアイラン)海で鯨を捕った。その後、ニューギニア(ヌーギネエ)海から西に向かった。

二年巳酉歳二月、セーラム(シセネマン)に到着。セーラムはオランダ(ダチ)の所管であるという。三十日ほど在留した。
鸚鵡が多いのでこれを家に土産にしようと購入し、船に繋いで飼った。タイモーに到着、さらに、鳥を数羽買った。
即日出航し、舵を西に取り、モーリシャス(モリテヨシ)のボーボンに行った。
五月にマダガスカル(マーデガースカ)海を過ぎ、ケープゴリホップを超え、舵を北西にとって、セントヘレナ(シセントヘリナ)の傍を過ぎ、舵を北西にとって、六月ノースアメリカ(ノヲスメリケ)の東沖に着いた。
八月中旬、ニューベッドフォードに帰港した。
ニューベッドフォードを出帆してから今までに四十ヶ月で、鯨五百頭、油数千樽を得た。
万次郎も金三百五十枚の配当金を受け取った。
上陸しウィットフィールドの家に帰ると、ウィットフィールドも在宅していた。今までの捕鯨のあらましを話すと、彼は万次郎の勉強の功績を誉めてくれた。

前へ次へ

ウエルカムジョン万の会>万次郎資料室>漂巽紀略15