マン、捕鯨船に乗り組み世界をめぐる

さて、ニューヨーク(ヌーヨーカ)の人でアイラ・ディビス(アレンテベン)は、かつてジョン・ジェームス・ハウランド号(ヂョンヂェームシハヲラン)=(無人島で助命してくれた船)の銛撃ちであったが、今、ニューベッドフォードの捕鯨船の船長となっていた。
彼が誘ってくれたので、その船の船員を雇い入れられ、十月上旬に乗船した。
その船は長さが二十八間、名をフランクリン(フランギラン)と言い、船員二十八名でニューベッドフォードで帆を開き、隣の港ボストン(ボーシドン)に入った。

ボストンは戸数七十万ばかりでこの辺りで一番の好埠頭である。
碇泊する船は林のようである。中に巨大な軍艦は夥しく、ここに碇を下ろしている。
合衆国と、メキシコの間にテキサス(ティシトン)という所があって、両国がこれを争っている。話し合うことも多年あったが、遂に兵を交え、戦闘はすでに三年を過ぎ今に至っている。
両国はさらに武器を増大し、互いに戦っている。この軍艦はその備えであるという。
港の外の海岸には数基の砲台がある。屋根に大きな巨石を築き、あるいは四層、あるいは五層と層ごとに大砲を並べ置き、あたかも城塞のようで、厳重な備えを設けている。

ここに三日いて、出航、走ること八百里、ウエシタン諸島の中、プハーヨー島に着いた。
プハーヨーは周囲三十里、気候は温暖。だから穀物で生えないものは少ししかない。土人の面容は合衆国に似ており、衣服の作りもまた模倣している。ここを過ぎて、ケープバーダ諸島の中、センチェゴに着いた。土人の皮膚は漆黒、頭髪は巻き縮れている。
ここで豚や薪を買った。

舵を南にとり、赤道下より南東にとり、アフリカの南の岬ケープゴノホップをへて、東に向かって舵をとって、アンシダダン(ニューアムステルダム)という無人島がある。ここで海亀を突きとった。舵を北東にとった。
(1847年、アメリカはメキシコに勝利した)
四年丁未歳(1847)二月、タイモー国コッベーンの奥に入港した。土人の家は二百ばかりあり、その造りは中国の職人が来て作るので、中国風であるという。肌は黒く、髪は縮れて長い。皆小さくはない。その風俗はオランダの所轄であるからか、オランダ人に似ている。
三十日ばかり碇泊し薪や水を得て、赤道下を東に行き来し、ヌーアイランに着き、ここに碇泊した。この国はかつて、漂着するのを待ってこれを食べるという悪習があったという。そのためであろうか、土人の顔はどう猛で、肌の色は褐色、髪は短く、男女はことごとく入れ墨をしていないものはいない。
ここを去り、ソロモン諸島(シヨルマンアイラン)の沖を巡り、鯨を捕獲。舵を子にとり、三月、グアム(ギューアン)に着いた。ここに三十日あまりいて、その後真北に向かう。
ティモール
四月、ボーニン島に着いた。
この島は近年まで無人島であったが、今は僅かに裸島、および、その他の所から四、五十人が来て、ここに居住して、芋や他の作物を耕作しているという。ここに碇泊すること十日。水をとり、出航した。
ここで四年前、日本の漂船があった。その船は人がことごとく死んでおり、ただ一名のみがスペイン船に助けられた。そしてこの島に泊まったが、その人は体を酷使される苦しさを厭い、一人、小舟を盗んで海に逃げ、そのままどうなったか誰も知らないと聞いた。
舵を真西に取り、琉球諸島の中、マンピゴミレに着いた。ボートをおろし、上陸し、牛二匹を買った。持っていた綿布二匹を与え、ここを離れた。東北東にはしり、日本の近くにいたり、ハレケン島の磯で小魚を釣った。
ボーニン島=無人島=父島のこと
ハレケン島=鳥島
八月から北東の方角二百里あまりの海で、小舟二十数隻が漁をしていたので、船を止め、帆を巻き、釣り糸をたれ、鰹をおよそ二百匹つった。
この時、小舟二艘が本船近くきたので、万次郎は持ってきた日本製の服ドンサを着て、ハンカチを額に巻き、船首に立って声を上げた。
その船を呼び止め、
「ここはどこの国であるか。」
と問うと、
「陸奥州仙台である。」
と言うのを聞き、急いでボートをおろし、蒸し餅二桶をもってその小舟に贈った
「土佐はここからどの方角にあるか。」
と聞くと、
「土佐はのことで知っていることはない。」
ということだった。
他にいくらか話しをしたが、一つも通じなかった。
彼らが鰹を数匹見せ、これをやろうというので、
「鰹は先ほどたくさん釣った。」
というと、漁師たちは頭を下げ、蒸し餅の恩を謝して帰って行った。
ここを出発し、東に向かった
このドンサは万次郎の母が作ってくれたもの

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