マン、子どもたちとともに文字を習う

合衆国(ユナイッシテイト)は東西六千九百里ほど。南北千里ほどである。
州は、マサチューセッツ、メーン、ヌーヨーク、ペンシルバニア、ニューハンプシャー、ロードアイランド、ケンタッキー、コネチカット、オハイオ、インディアナ、メリーランド、ノースカロライナ、サウスカリフォルニア、デラウェア、ミシシッピー、イリノイ、ルイジアンナ、ミシガン、コロンビア、ニュージャージー、アラバマ、ミズーリ、バージニア、ジョージア、フロリダ、テネシー等、三十四国に別れている。
マシツセ、メーン、ヌーヨーカ、エンシラィベネ、ヌーハンムシア、ロラリアイラン、マンテツカ、カンメケ、ラハヨ、インリアナ、メレラェン、ノオスカロラェエン、ジウスカロラェン、デレウッア、メセセベ、イルノラヱ、ロヱシアイナ、メンセギヤェン、コランベア、ノセロデ、アレバマ、メッシユウレ、バチネ、ヂョーヂヱ、ブランフッチ、テネシー
この国は北緯四十度から五十度にあるので、大気は清潔、寒暖は時々に変わり、穀物は種をまいて生えないものはない。
土地の人の体格は美しく、肌は白く、髪は黒い。身長は五尺から六尺以上である。
生まれつき温柔であり、他人に愛情を加え、かつ、節度があることを尊ぶ。
毎日勤勉であり、この国の周囲で貿易をしない地はない。
女性はもとより美しく、黒髪を頭頂で束ね、かんざしの類をしているのを見ない。その性質は従順で貞淑である。(肌が黒い人、髪が赤い人など少し異なる人もたくさんおり、これは他州の人との混血であろう)
飲食、衣服、家屋、器機の類はことごとくオアフ(オアホー)に違ったところはないが、豊穣であることは比べようもない。
酒を賤しむことはオアフに同じである。怠惰に酒を飲み溺れるものは、人々が避け、近づく人はいない。
万次郎がジェーン・アレン(ヂェンナアレン)の家で養われることはすでに数日に及んだ。
ジェーン・アレン(ヂュムシアレン)の妻、ジェーン・アレンという人は、三十歳ほどで、塾の先生であったので、子どもたち数人がここで学んでいた。
ジェーン・アレンは万次郎に対し、
「あなたも字を学ぼうと思うなら教えましょう。」
とノートを頂いた。他にすることもないので、これを書写した。

※1

フェアヘブン(ハーヘーブン)から二百五十里離れたところにある、ニューヨーク州ニューヨーク(ヌーヨーカ州ヌーヨーカ)という都市は、三十四州中の中心である。※2
多くの才能や学識を持った人達を推薦して、大統領を選ぶ。
大統領の在職期間は四年を限度としている。しかし、もし徳が高く、政治の力が抜群であれば、なお、職を続けることが出来ることもある。
在職中、一日の給料は銀千二百枚、(日本の金二貫五百文を銀一枚)である。全国の、才能があるものがこれに選ばれようと、相争ってここに集まる。今の大統領はテーラー(テヘラ)と言い、その政策は法に則って厳正であるという。このように、政治や法律が行き届いているために、合衆国の政治にこれ以上付け加えることはないということである。





※1の部分に下記の作者注(河田小龍による)がはいる
右三十四州の地名は、「エイビーシイ」「ワンツウ」あちらで文字などを習い、この地名を学んだ。(日本で若年者に文字を教えるのと同じである)また、これを終わったら、全世界の島などの名称を学ぶ。(島の中ではテラーッシレリアが最大であるということだ)
それから追々、文学を学ぶという。(文言は初めは学びにくいので、州名や島の名前を学ぶのである)




※2万次郎の誤認、 首都はワシントンである
ウィットフィールドの兄、ジョージ・ウィットフィールド(ヂョーヂフィツフピール)はこの都市に住んでいる。
ウィットフィールドは、彼に会い、あいさつし、あわせて商売をすることもあるからと出かけていった。
八月頃になって、プリイヂと言うところから、後妻アルパティーナ(アルパタィネ)という人を連れて帰ってきた。
五里外の東にある村シカヌキネンに、金千枚で家と土地を買い、新たに部屋を作り、妻と万次郎を連れてここに引っ越しをした。
牛、馬、豚、鶏を数多く飼育し、耕作夫を雇い、黍、麦、ヒルガオ、ツタ、豆、芋、瓜、青ものなど様々な種をまいた。万次郎も耕作夫を助け、暇なときには字の練習を心がけて、日を送っていたが、十月、十一月の頃から寒くなり、雪も降り、耕作が自由に出来なくなったので、終日、字を学んだ。
弘化元年甲辰歳(1844)二月、ウィットフィールドは万次郎を呼んで、
「フェアへブンのバートレット(バーヅレ)という人は三十歳あまりの人であるが、博学多才であると人は皆言っている。ここで読書、及び、算術、測量を学びなさい。」
というので、そこに行って勉強することになった。

この年、フィツピールには男の子が生まれ、ウィリアム・ヘンリー(ウリュンヘナン)と名付けた。その顔の美麗であることは玉のようであった。
フィツピールの姉はかつて誰かの婦人であったが、その夫が人の妻を奪い出奔したので、今はウィットフィールドの家に来ており、共に生まれた子を養育し、愛情を加えることは大きかったが、この後、ウィットフィールドの航海中にこの子が亡くなり、みな憐れみあったことだ。

二年乙巳歳(1845)五月頃、ニューベッドフォード(ヌーベッホー)でハッセー(ハジャ)という桶職人に弟子入りした。
ここで桶の作り方を学んだが思いがけず病気になり、ウィットフィールドの所に帰って療養した。
このころ、ウィットフィールドは捕鯨に出るため旅装を整え、留守の間のことを万次郎に託し、六月下旬に出航した。
三年丙午歳(1846)二月、病気も平癒し、また、ハッセーの所に行き寄宿して、八月にはウィットフィールドの家に帰った。

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