ヂョンマン世界の海をめぐり、ヌーベッホーの人となる

漂巽紀略 巻之三

万次郎、伝蔵ら四人と別れ、諸洋をめぐってアメリカに行く

天保十二年(1841)辛丑歳十一月、万次郎はオアホーで筆之丞ら四人と別れ、ウィットフィールド(ウリョンエイチフィツピール)に随い、船に乗った。

船の人達からは略して「マン」と名付けられた。あるいは、「ジョンマン」(ヂョンマン)と呼ばれた。(ヂョンはアメリカの身分の低い者を呼ぶ言葉である)

これからは水夫となった。
十二月上旬、オアフ(オアホー)を出航し、南に向かって三十日程走り、キンシミン島に着いた。島の幅は十里、縦一里ほどで面積は二十里にあまるほどである。
そこは赤道直下にあるので、大気炎熱である。このために、土人は裸であることを普通であり、椰子の葉を編み、これを蓑のように垂らし、陰部をほんの少し覆うだけである。毛髪は肩の辺りで切り、また頭頂で束ねる者もいて、それぞれの思うに任せている。

全島が大きな砂地であり、穀物などは生産しておらず、椰子を拾い、魚やエビやカニを捕り、これらを常食している。家屋は甚だ粗いもので、ただ椰子の木を四本たて、椰子の葉で覆い、下に椰子の葉を敷き、ここで寝起きをしている。

ここで魚を捕らえ、舵を西に取り走ること数十日、天保十三年壬寅歳(1842)三月、グァム(ギユーアン)に着いた。
薪や水、芋の類を得て、四月下旬にもやいを解き、舵を北西にとり、台湾海を過ぎ、日本の海に転進、ハレケンと呼ばれる、以前、五人で苦しんだ無人島に行き、小魚を釣った。
日本と隔たることは百里ほど、あるいは、五十里ほどの海で鯨を捕らえた。

東に進みオアフに近づいたが、折からの風波が高く、港に入ることは出来なかった。更に舵を南西にとり、十一に月エミオ島に着く。エミオは周囲三里、家屋が三百戸あまりが軒を連ね、人物や風俗はオアフによく似ている。薪や水を買い、十二月に帆を上げ、東南に舵を取った。

天保十四年癸卯の歳(1843)四月下旬、サウスアメリカ(シヲウスメリク)の極南岬ケープホンと言うところから百里沖を航行した。
ここは氷の海であり、幾多の氷山は高く大きくそびえ立ち、その最も高大なものは数百丈を超える高さであり、ほとんどひっくり返りそうである。通行している船舶はこの氷山のために壊されることも多いという。

不思議な獣がおり、その大きさは牛程で、倍程のものもいる。その名をセイウチ(ホース)といい、アザラシ(シヘル)といわれるものと共に、子どもを連れ、多くの数が氷山の辺りを往来している。背中は濃い赤、鼻の中央に一角がある。

ここを過ぎて、舵を東北にとった。
この時、西の方角にコメット(カメッ)と言う不思議な星があった。天の半ばを横切っているものを見た。
この星は八十年から百年に一度現れるという。

また舵を北北西にとり、六月の上旬、ノースアメリカ、ユナイテッド州、マサチューセッツ(ノフスメリケ、ユナイッーテイト州マシツセ国)の藩の中ニューベッドフォード(ノヌーベッホー)の港口に達した。
ニューベッドフォードは深さ三里ほどあり、(日本の十五丁がアメリカの一里)の奥まった海で入り口は狭い。一里程ある。
中高に小さな島があり、島の左右に板橋がかかっている。右の方の端は長さが五十尺ほど、ワイヤでこれを繋ぎ、片方に車を作っている。
船長がマストをたてながら橋に近づくと、水夫が一人橋に上がり、彼が車でワイヤを巻き上げると、中間の板が片側へ退き、船が通り過ぎるのを待つ。ワイヤを解くと中間の板は元のところに戻り、橋は元通りになる。

ここを過ぎて、ニューベッドフォードに着岸し、港に船を繋ぎ、当直を置いてウィットフィールドは港に寄港したことを告げ、水夫たちはここで別れた。船長は万次郎を率いて、先ほどの橋を南に渡り、フェアヘブン(ハーヘーブン)に着いた。

フェアフェブンは街の規模ではニューベッドフォードに比べることはできないが、街の中間にウィットフィールドの家がある。
帰り着いてみると、門を固く閉ざし、寂莫として荒涼とした風なので、ウィットフィールドは大いにいぶかって、隣の家を訪れ理由を聞くと、
ウィットフィールドの航海中に妻はなくなり、他に住む人がいないのでこのように門を閉ざしているのだということであった。
ウィットフィールドは驚き、万次郎をジェームス・アレン(ヂエムシアレン)という人の所に連れて行き、ここに寄宿させてもらうところとなった。

前へ次へ

ウエルカムジョン万の会>万次郎資料室>漂巽紀略12