伝蔵、五右衛門、蝦夷にいたるも、またハワイに復す

弘化四年(1847)正月、北に向かって、ラツルネ島の中にある、グァム(ギュウアン)島の港に入る。
すぐに船長は上陸し、宿に泊まった。水夫もまた投宿した。
この地は好条件の地で櫛のように人家が並び、山のもの海のものが市をなし、その繁盛は近隣の島で並ぶところは少ししかない。

島の中に高い山があって、薪や水も乏しくない。また米を産し、休耕することがなく、気候は炎熱ではない。土人の言葉、衣服はオアフ(オアホー)や、スペイン風を彷彿とさせる。
ここで船の破損を補い、下旬に出帆した。

舵を北にとり、三月中旬、日本の海に近寄った。
八丈島近くにきたので、伝蔵、五右衛門は、ここに上陸したいと大いに勇み立った。
船長も珍しく、日本の人物、家屋を見たいと、伝蔵、五右衛門を護送してきたとの状を書いて、ボートをおろした。

人や人家、牛馬をひき耕作するのを見られる程に近づいたけれども、風や波で漕ぎ寄ることが出来ず、昼から夜に至るまで島を周回したが、志を果たすことが出来ず、ついに八丈島を離れ、舵を北北東にとった。

蝦夷の地に至って、一つの山の端を回って北に向かった。
海岸にやや近いところに船が入ったとき、篝火やのろしが方々からあがった。
その様がすさまじいので、船の人達はこれを警戒した。
しかし、伝蔵は、かつて、異国の船が近づいたときは、防御の備えがあるということを見聞しており、これがその狼煙であると思い、気にしない風を装いボートをおろし、航海長と共に上陸した。

のろしの起きたところに人がいるだろうと、その辺りを探したが、伝蔵を見るとみんな走り逃げ、人影がない。
伝蔵は声を上げ、
「自分は日本人である」
と叫ぶが、応じる声はない。

小屋を見つけ、中に入るが空である。
ただ、日本の釜などが熱いまま捨て置かれていた。これは今逃げたものであろう。
伝蔵は航海長に向かって、
「もはや日本の属国に至ったので、このまま残してくれ。土人はきっとこの巨船に恐れおののいたものであるから、本船さえこの岸を離れたならば、土人も出てくるであろう。」
と言うと、航海長は首を振り、
「ウィットフィールドの護送書を付け、あなたたちを土人に預け、その領収書を得なくては、ウィットフィールドに会って伝えることが出来ない。」
と聞き入れてくれない。

伝蔵達も仕方がないので船に戻り、ついに蝦夷を出発した。

四月頃のことであったが寒さは厳しく、アシカが泳ぐ数が夥しい。

ここで舵を北にとり、鯨数百頭をとり、五十日ばかりしてロシアのルシン山の麓に至った。
ルシン山はこの辺りの大獄であり、常に山頂は積雪があり、遙か眺めると雪の色は深く赤く、千里の山は断つところが見えないほどである。これから奥に進めば、目にふれるのは茫荒たる靄と霧ばかりで、陽を見ることもなく、また、昼も夜も分かちがたい。
たまたま船舶が通行することがあれば、木片をうち、船肌を打ち、互いに船舶があるのを知るのみである。
海面は青浪の外に土色の濁潮流が流れ、船はそれに近寄ることが出来ない。寒く雪が降り、鯨も見ないので舵を反し、ルシン山の外に船を浮かべる。この辺りは数々の小さな島があり、多くは細い木が一、二株生えている。ここで数匹の鯨を捕った。

九月の頃になり、西風があった。これを真艫にうけて、帆を張って走った。矢よりも速く、さしもの大型船も大波に揺れ、三昼夜炊事をすることが出来なかった。ただ、ベチテヱブルという蒸し餅を食うだけであった。
三十日ほどして東風に転じ、舵を西南西にとって、六日でオアフ島に帰ってきた。

漂巽紀略巻之二終わり

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