第一談
かつて海外に漂流し、この度帰朝した土佐の国、吾川郡宇佐浦漁師伝蔵、同人の弟五右衛門、同国、幡多郡中ノ浜浦万次郎等三人、長崎お奉行所において、詮議が済んだので、帰国して、お屋敷に召し出されたとき面談し、尋ねたことに答えたのは左のようなことである。

一つ
私達三人は、さる天保十二年、辛丑、正月五日、伝蔵、弟重助、同じ所に住む寅右衛門と都合五人が申し合わせ、竜骨二丈五尺の漁船に、白米一斗余りを用意し、その日の四つ過ぎに、宇佐浦を出帆し、、四、五里ほど南の方、興津の沖「どんと」ということろで延縄というもので鱸をつっておりましたが獲物はなく、南の方の「八十の岬」というところに碇を下ろし、その夜を明かしました。

翌六日、佐賀の沖に乗り出し、漁をしていたけれどもまた獲物がありませんでした。
井田の白浜と言うところへ乗り寄せ、その夜を明かし、七日の明け方に足摺岬から十四、五里沖へ行きました。
そこで、漁をしていたところ、西北の風が吹き起こったので、陸の方へ五里程漕いでいったとき、丁度、小鯛、鯖、鰺などの群れを見つけたので、延縄を六桶流しました。昼過ぎになって、にわかに、あなせという風が吹き起こったのです。

雲が煙のように流れるのを見るにつけ、三筋程延縄をあげ、残りは切り捨て、岬の方へ近寄ろうとしましたが、風が吹き起こり、どのようにもならず、みんな手に手に櫂を取り、力を尽くして漕ぐけれども、稜線はすでに潮と雲に隔たり見ることが出来なくなりました。

風は激しく、波は荒く、終に日も暮れ、そうこうしているうちに、夜半となり、疲れも甚だしく、櫓を付けるところも折れてしまったのです。
暗い中、波中を船は上下し、徐々に辰巳の方へ流れていきました。
寒さが身にしみ、一同凍えて居すくみ、ただ神仏に祈るだけでありました。
朝になってみると、櫓は流れて一挺もなくなり、風はなお甚だしく吹き、どうすることもできず、大小の帆柱を横に結びつけ、船が転覆しないようにして、風に任せて流されていきました。

陸の山は遙かに見えているけれども、寄せていくことが出来ず、みすみす漂流しました。
終には山も見えなくなり、九日の日は用意していた米がなくなりましたので、釣りためた魚を食べ、飢えの凌いだのです。
十日から雨が降り出し、寒風はさらに甚だしくなり、海苔を焼き、暖を取り、残っていた魚を分けて食べました。

このように飢えながらも日は暮れて、夜も明け、とうとう十三日になりましたとき、まだ暗い中、東南と見える方角に山を見つけました。
鳥もたくさん見えるので、伝蔵が言うには、
「あれは藤九郎という鳥で、あれがいるところを見ると、あそこに見えるのは必ず島にちがいない。島であれば流し寄せてくだされ。」
と神仏に祈念したところ、その日の夕暮れにようやく流れ近づきました。

たしかに、それは一つの小島でありました。

しかし、風も波も激しく、飢えに疲れも甚だしく、碇を下して、そのままそこで漂っていると、ふと、磯魚がたくさんにいるのを見つけたので、延縄を出し、釣りを垂れたところ、たくさん釣れたのでこれを食べました。
夜を明かし、翌十四日になり、一同は奮発して碇縄を切り、船板などを以て漕ぎ寄せ、磯の岩にふれ当たって、船は破損してしまったのです。
五右衛門は一番に磯に上がり、海草をつかんで食べ、続いて皆々島に上がりましたが、この島は人の住むところではなく、岩石に茅の類が生い茂っているだけで、いかんともしがたいことでした。

ここかしこを見回って、いると、東の方の磯に、洞穴があったので、まずこれを寝起きするところしました。
藤九郎がたくさんいるので、石で打ち殺し、引き裂いて食べることが出来たので、ずいぶん腹が一杯になり、頻繁にこれを打ち殺して食べました。
水は岩の間からしたたり落ちるのを、船が壊れたときに波打ち際に上がっていた桶にため、あるいは雨の流れてくるのを受けて飲みました。
身を投げて死のうと思ったときもありましたが、また思い返して、生きられるだけは生きようと日を送ったのです。

夏の気候になり、藤九郎は次第に少なくなってきて、磯から上へ這い上がり、飛び去ってしまいました。
ある日、五右衛門、万次郎を連れて磯から上に上がり、険しい岩を昇り、三、四町程上がったところに広い平地があり、石を積み上げた古井戸のようなものがありました。

ここは四方一里程の島であるように見えました。

後で聞いたところでは、ここは無人島(ブニントウ)と言うところであるということでした。日本から百余里南にあります。
この頃、重助は下痢が甚だしくおこって、洞窟の中に伏せっておりました。伝蔵も藤九郎が少なくなった頃から、やせ衰え、ただ、重助の看病をしておりました。

寅右衛門、五右衛門、万次郎の三人は貝を掘り、磯の草をとって日々一同の食物としたのです。

六月の頃、三日月から二日程経った頃、三人が南の磯で、帆船一艘が南東の方から来るのを見つけました。
どこの船であろうと見ていると、次第に近寄ってきたが、大きな異国船でありました。
みんなで声を上げ、壊れた船くずの帆げたに衣類をくくりつけて招きました。そうして漂流人がいることを知らせたところ、その船から小舟が二艘降ろされ、島に向かって漕いでくるのです。
笠を振って招くので、三人は大いに喜んで、こちらからも差し招きました。
磯の近くは荒磯であり、船を近づけにくいので、船から、衣類を頭に乗せて泳いでこいというように手真似をするので、見慣れぬ人達であり、気味悪いとは思ったけれど、いつまでもいられる島ではないので、彼らが手招くように船まで泳ぎ渡りました。

彼らは、他に連れはいないかという身振りをするので、洞窟の方を指し、後二人残っていると身振り手振りで伝えると、一艘の船に真っ黒い人を乗せ、洞窟の方へ漕ぎよせました。
この時、伝蔵は洞穴の中で重助の看病をしていたところ、ふと洞穴の口に、鍋の尻に目と歯を付けたような者が入ってきて、何かをしゃべりながら、伝蔵を引き出そうとするのです。恐ろしく思ってふりほどこうとしたが、色の白い外国人三人も、船に乗り合わして手招きするので、それにしたがってその船に乗りました。

重助はその黒い者に助けられ、船に乗り、それから二艘は大船に漕ぎ寄りました。

長さ三十間、幅六間ほどで、帆柱三本立ての船で、異人が三十余人乗っていおりました。ことのほか丁寧な扱いで、薬や衣装をもらい様々に介抱されました。彼らはまた島に残してきたものはないかと手振りをするので、衣類を残してきたことを手振りで伝えると、また小舟を下ろし、黒い人をのせ、島に漕ぎ寄せ衣類を取って戻ってきてくれました。

三日ほどたつまでは、焼き芋、豚の干物を少しもらい、たくさん食べることを制せられました。これは飢えた者が大食すると死に至るということで、このようにしたということであると後で聞きました。

はじめに船を島に漕ぎ寄せたときも、はじめから漂流人がいるとは知らず、磯魚をとろうと来たところ、人影を見て助けたと言うことです。さて、この船は北アメリカマサツーツという国の鯨船で、船主の名をウリヨンフイチセルということです。
ここから所々、鯨漁をし、大鯨を十五本捕り、船中で油を取り、肉は海に捨て、十一月サントウイス諸島の中のウワホーという島のハナロノという港に着きました。

この港は万国の船が集まるところで、北アメリカからやってきた奉行と思われる、ダフダリヨーヂという人がおり、船主フィチセルからこの人に申し込み、伝蔵等五人が上陸し、国元の詮議がありました。

船中で地図を一枚開き、日本近海を指し、ここかこれか、としきりに尋ねられたけれども、五人とも地図が分からないことなので、一向に理解し合えませんでした。また、神仏を手を合わせて拝むところかと言うように手振りするので、その通りでございますということを手真似でもって答えました。
また、日本の一朱銀二十枚、二朱小判一枚、銭一文に和製の煙管一本を取りそえて見せるので、これは皆我らの国元のものであることを手真似で答えたところ、日本人と分かってくれました。

これは十余年前、大阪商船がここに漂着したことがあり、そのとき彼らが持っていたものであると、後に聞きました。
さて、詮議が済み、それぞれハスダラという銀銭一枚ずつをもらい、万次郎はフイチセルに望まれて、アメリカ本国へ連れて行きたいと申し込まれました。
万次郎の心次第であると答えたところ、ずいぶんいたわるので気遣いいらないと、四人に言い、万次郎をその鯨船に乗せ、出航いたしました。この時、万次郎は十四歳でございました。

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