一つ、四人は、ダフタリョージの部下にあたる人に預けられ、世話になって暮らしておりましたが、言葉も通じず、空しく月日を送っておりました。翌年、寅の年の夏頃になると、言葉もようやく通じるようになり、品々の名も少しは覚え、長々世話になりましたので、心苦しく思うこともあり、相応の働きをしたいと申し出ました。

すると、奉行よりの預かり人であるので、「心配には及ばない、安心して暮らされるように」
と親切にいっていただきましたので、その後一年ばかりはそのままで暮らしましたが、何分にも相応の働きをしたいということを、ダフタリョージに申し出たところ、
「リョージ方へ来て、その申し出の通り、ここの家来分ということなり、薪を割り、水くみ、掃除など、弁当を持って、作業をするように」
と申しつけられたのでございます。
伝蔵は四人の中で一番年をとり、このとき三十四歳になり、本名は筆之丞と申しますが、ここの人たちが呼ぶ声はいつ聴いても、テンゾ、あるいは、テンゾウと言うように聞こえますので、伝蔵と改名いたしました。
寅右衛門は大工の家に雇われ弟子となったのでございます。

 重助は、リョージ方に住まわせてもらいましたが、午の歳から病気が再発いたしました。療治のために、港から三里ほど東にあるコウローと言うところへ参りまして、百姓テツハニという方の家に宿を取り、よい医師を迎え、養生いたしましたがその甲斐なく、とても治らない様子になり、未の正月に終に病死いたしました。
近辺の人々に、様々に世話になり、ここにミスターパーカーと申される、僧の姿をした人がおり、葬式のお願いをいたしましたところ、お経のようなものを慇懃に読んで下さり、棺に納め、カンネヲというところへ葬りました。この国の風俗には、精進や法事というものはありませんが、心の中で精進も墓参もいたしました。
 
 これからは兄弟二人、ツワナという方のお世話になりました。
あるとき、この島の殿様カメハメハ三世(キンカケヲリ)と言う方が、ハナロの港から巡見してここにいらっしゃいました。この時、ツワナの家に止宿され、我ら兄弟を御前に召し出され、暮らし向きのことなどをねんごろに聞かれましたので、今までのことを申し上げ、
「何とぞ少々耕作などし、また、耕作の間に漁などもしたく思います。」
と申し出たところ、聞き届けられ、ツワナへ何か指図して出て行かれました。
その後、ツワナから田畑配分にあずかり、兄弟申し合わせて、浜辺の空き地に一間の家を建て、耕作、漁労などをして暮らしておりました。
私どもに限り、税金はかかりません。村役人から人別があり、十五歳以上の者は、銀銭一枚ずつ役人に差し出すことになっているけれども、この沙汰にも及ばないのです。

作物は芋の類で、ずいぶんよくできました。
釣り道具は宇佐で鰹を釣った通りにこしらえて、たくさん釣り上げ、みんなを驚かせたこともありました。
これを四つ辻の魚市場に持って行き、売るなどして暮らしておりました。

そんな暮らしの中、五右衛門があの僧体ミシパレカのところに雇われていたとき、シヨレンという法談のようなことがありました。そこで、群衆の中で、
「ゴエーモン」
と呼ぶ人がおり、
「その方、この私を見忘れたか。」
というので、見ると、あのウリヨンフイチセルでございました。
「どうして見忘れることがございましょう。命の親というべき方を。」
と、最善の礼を述べ、重助が病死したことも語りましたところ、ことのほか悲しんでくださりました。

そして、自分が水主をしているキヤンプンコーコシ(キャプテンコックス)という男が、この度、鯨船を仕立て、日本近辺まで行くはずなので、そのとき、便船として、故郷を恋しく思っているあなた達を皆日本へ送り返したいとおっしゃいました。
重助のことは残念であるが仕方がない。万次郎はアメリカにおり、粗末な扱いはせず、元気に暮らしているので気遣いないようにとも話されました。

「三人申し合わせて、急いで帰国の用意をしなさい。キャンフンコカーコシにはよろしく頼んでおくから。」
と、同道して、あの浜辺の家を見聞し、眉を顰めておりましたが、伝蔵が取り出した桶に腰掛けにして座り、
「さても風流なるわび住まいかな。」
と笑いあい、これまでの暮らし方を詳しく伝蔵に尋ねられたので、
「さきに五右衛門に言った通り、帰るべき道があるなら帰りたいと思います」
と申し上げました。
「それなら明日、ハナロの浜へ来るように」
と、銀銭二枚をくださって立ち去られました。

翌日、まず五右衛門一人で港に行ったところ、フイチセルが出迎えてくださり、
「その体では日本へ帰ることも出来ない。これを着て故郷へ帰りなさい。」
と、羅紗類の衣服、兄弟の分一切を贈ってくださりました。
これを持ち帰り大いに喜んで、兄弟共々ハナロに行き、寅右衛門に対面し帰朝の約束がなり、人々に暇乞いして互いに涙を流し別れたのです。あのダフタリヨーヂより餞別なども頂き、乗船いたしました。

フイチセルはキャンプンコーコシへ兄弟のことを丁寧に頼んでくださり別れました。
寅右衛門のことはフイチセルの思うところ、別の船に頼み乗船したのですが、にわかに心変わりし、船中に腹黒い人があるので、便乗しがたく、今しばらくここにいたいと申して上陸しました。
この船は、その後、さる国に入り、乱暴したということを後に聞きました。

程なく、キャンプンコーコシは帆を開き、裸島あたりから所々で鯨漁をし、翌年三月,日本の八丈島近辺に行ったところ、風が悪く、上陸することが出来ないというので、東に進み、北へ転じ、蝦夷の東に到着しました。キャンフンコーコシの言うところでは、
「ここは日本の支配地、松前というところである。ここより帰りなさい。」
といい、山の北そばに船を着けると申しました。はじめはかがり火をたき、磯辺を守るように見えておりましたが、船が着きましからは、一人も見えず、キャンプンコーコシは我ら兄弟を伴い上陸し、ここかしこと見回り、小屋二軒を発見しましたが人はおらず、詮方なく、ここからはただ二人帰ることを申し上げたところ、キャンプンコーコシは承知なさらず、
「人もいない浜に置いていくのは本意でない、また、便もあるだろう、まず、船に乗りなさい。」
と申しました。
その意に従いまた乗船いたし、東へ乗り出し、所々で鯨を捕り、日の光を見ないこと四十日ばかりで南へ乗り出し、十月頃、ウワホーに帰帆いたしました。キャンフンコーコシも、気の毒に思われたのでしょう、そうして、
「また、よい便があれば、その節に送りましょう。」
と言い合い、別れました。兄弟上陸いたしました。

さて、万次郎はアメリカ、フィチセル宅において成長いたし、この度、同国のテベスという人に雇われ、鯨船に乗り、ウワホーの港に着帆しました。兄弟は未だ

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