土佐からの迎え長崎にいたり、三人故郷へ帰る

五年壬子歳(1852)三月、寅吉たちに紀州からの迎えの役人が来た。またの再会を約して、別れを惜しみながら寅吉等は帰って行った。
ここから三人は、
「自分たちも故郷から程なく迎えが来るであろう。」
と指を折って待ち続けたところ、六月二十三日、土佐の役人堀部某以下十六名、浦役人一名、三人の家族の十二名が来た。

官庭に召されて行くと、正面の牧志摩候および、役人が列席し、土佐の堀部某は側面に座わっている。
浦役人及び、三名は庭下に跪いた。
牧志摩候は、漂流の略事を述べた。
また、滞在中、邪教の信者とならなかったので、三人は土佐に帰され、以降、藩外にでないこと、もし、死亡したら、報告すること。さらに、寅右衛門は外国に住み、重助は死亡したことを家族親類へ伝えるべきこと。

三人の通称を書写したものへ第三指の爪印を押し、持って帰ったもののうち、砂金、銀銭、銅銭、英文書籍、記録、銃、弾丸、オクタント(測量器)を除くほか、船、船具は悉く召し上げられ、砂金、銀銭、銅銭は日本銀にあて、これを賜った。
その他の器械はみな返されて、官舎から旅亭西川に移った。

二十五日に長崎を出発、海陸天順を得て、七月九日に土佐の国境に着いた。
十一日に高知城下に入り、浦戸街頭の旅亭松尾を宿舎に命じられた。
それから毎日役所に召されて、漂流のことについて尋問があった。
地図をめぐって尋問があることは長崎と同じで、尋問は九月二十四日に及びことごとく終了した。
三人は、生涯、海上業を禁じられ、厚禄を頂くこととなって、浦に帰る赦免を頂き、十月一日、喜び勇んで高知を出発した。
日暮れに宇佐浦に帰り着くと、伝蔵等の家はすでに朽ち、今はどこであるかも明らかでないほどだったので、従兄弟の伝蔵という者の家に寄宿することになった。
親族知り合いが群がって来て、長い苦労を物語った。居合わせた者で喜ばない者はいなかった。(筆之丞の叔母は伝蔵という人の妻で、その伝蔵の名をもらった。この伝蔵は、父の伝蔵の名をついで伝蔵といった、年齢は四十五)
万次郎は翌日宇佐浦をたち、五日午後、中ノ浜に帰り着いた。老母はなお存命であり、兄悦助(姉せきの婿であり悦助をついだ)
姉世喜、眞、時蔵、弟熊吉、妹梅等、ともに祝杯を挙げ、苦心談に袂を絞ったという。

さて、彼が携えてきた万国地図はイギリス(インギラン)人が作ったもので、かの国※1紀元千三百四十四年(弘化二年)新造であり、その詳細なことは今まで世にあったものと比べようもない
しかし、図中の名称はかの国の横文で書かれていて、読むことが出来ないので、私こと川田維鶴を呼び出され、新たにこれを模写し、万次郎に横文字を読ませ、これを国字に翻訳し、官に納めよという命令により、十月十九日をもって書き始めた。
この図が落成した後は、航海、測量の技術を正していくために、十二月十二日、万次郎は普代の臣下に銘ぜられて、以来、国恩の厚意を拝することとなった。

                                         嘉永五年歳次壬子冬日 草稿畢
                                                          半舫齋
※1845年

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