土佐唐人之記


当寺の檀家、宇佐浦の水主、筆之丞、その弟重助、その弟五右衛門。この三人へ中ノ浜浦の万次郎、宇佐浦寅右衛門が乗り、都合五人が、さる天保12年丑年、正月7日に出漁した。折から強風に遭い、東南の方向にふき流された。
何日かを経て無人島に漂着した。
数ヶ月の後、異国船に助けられ、アメリカへ行き、重助は病死し、残りの四人はその地で働いた。
ちょうど、一昨年の冬、アメリカの商船が中国へ渡るのに便乗させてもらえるよう頼み込んだ。
寅右衛門はアメリカに残り、三人は異国船に乗り、昨年亥年の正月、琉球国へ上陸した。
その年の9月、薩摩から長崎に送られ、取り調べをした上で、土佐の役人に引き渡しとなり、江戸に伺いを立てた後、今年、子の年の7月、高智に着いた。
数日は尋問があり、三人に一人扶持を頂き、挨拶をすませ、9月に宇佐浦へ帰着した。
筆之丞は傳蔵と改名した。
様々なところからの見物客が夥しく、本物の異人を見るようであった。
三人の親族は希なことであると喜び、アメリカに残った寅右衛門の親類は涙を流した。
また、彼らの衣服を見ようと、近所の者も遠くの者も見物客が切れることなく、本当にこの辺りでは最近珍しい一大事であった。
この地の役人が三人を連れ回した時の書き付けは左(下)のようなものである


宇佐浦 傳蔵
同人弟 五右衛門
中濱浦 萬次郎

右(上)の者はずっと漁業を生業としていたのである。天保12年丑年正月、漁に出たところ、思いがけず強風にあって無人島へ漂着した。
数ヶ月その島にいたところをアメリカの船に助けられ、ついに異国へ渡ることとなった。
数年の間様々に働いていたが、何とか国元へ帰りたいと思っていたところ、去年戌年十月、アメリカ商船が中国へ渡る便に頼み込み、中濱浦萬次郎と共に乗船した。
去る亥の年正月、琉球国へ上陸し、同年九月薩摩から長崎に送られた。そこで役人が吟味をして、外国においてキリシタンなどの邪教に入信している疑いも晴れ、国元へ帰されることになり、住所を構えた上で国元へ引き渡されることとなった。
この七月到着したので、詮議の上、他国への往来はもちろんのこと、海上に出ることも止められ、元の浜浦に留まることとなった。
しかし、慣れた生業に着くことが出来ないので、一生の間、一人扶持を遣わされることとなった。
一同ありがたき幸せというべきであろう。
よって、右の者を連れてお礼にまかった次第である。以上


右の三人とも、アメリカで数年を過ごしている間、土地の習慣に任せて、漁業をして過ごし、時々はその地の女性と交わったという。
男根をプレカと言い、女陰はカントというようである。まことに日本の男根をもって、異国の女と交合したことは、大変な珍宝というべきではないか。
寅右衛門は、彼の地の女陰が宇佐の女の女陰と違い、具合がよかったから残り留まったかもしれない。
その国の話を聞くと、言葉、文字をはじめ、ことごとく違っているけれども、男女の情、色の道が盛んであることはいずこも同じ秋の夕暮れであり、人がいない折を伺っては、窮屈な衣服を着ながらも、出逢いの色事のために、雨に濡れ、ネズミのように走り帰る者もいるという。
国は日本よりも豊穣な所と見え、衣服の値段も安く、金具状のものの多くは金銀を使っている。
この度帰った三人の内、二人は当寺の檀家の者だから、去年亥の年の冬、浦方役所から連絡があり、薩摩と長崎へ二人の寺請けを当山から送った。その文面は左の通りである

寺請
土佐の国高岡郡宇佐浦、傳蔵、同弟五右衛門のこと、宗旨は代々真宗で、当寺の檀家であることは紛れないことを件の如く証明します

                                                   京都東本願寺末
嘉永四年亥年                                          松平土佐守領分
十二月十日                                               高岡郡宇佐浦
                                                           眞覚寺
                                                             両版

この書き付けを宇佐の庄屋が持参して、浦方役所へ提出した。その上で江戸への証文となり、様々な手続きが完了したということである。
人命が重いこと国恩のありがたいこと(ここでは渡航の罪を許されたこと)はこれでわかるであろう。
その後、萬次郎は再び役所に召し出され、定小者となって、教授館の下働きを勤めると聞いた。
これは、萬次郎が異国で天文学を習い、測量に精通しているためであるという。
私が考えるに、天文や測量は、代々それを受け継ぐ家に生まれてさえ、その技術を身につけることは非常に困難なことであるのに、三人とも出身は文盲の出であり、その上、言葉が通じない国で学んだことなので、万次郎の知識もさほどのことはあるまい。
星の角度で方角を立て、船に乗る国のことなので、ほんの少しのことを学んだのであろう。
であるのに、萬次郎の天文学がこの国に並びないように思うのは、愚かの至りと言わねばならない。
もとより水夫の生まれであり、思いがけず、海上での難を凌いで、夢にも見たことがないような国に渡って、その国や人々を見聞し、国恩によって故郷に帰ることが出来るようになり、あまつさえ、生涯食いはぐれることがないよう恵みを受け、お城の鐘をいつまでも聞く身分になったのは、田舎者の幸福と言うべきである


傍らで質問するには

私が答えて言うには

また質問するに、

また問うには

答えて言うには、

嘉永5壬子冬十二月日記之 朝陽山主人

帰郷した伝蔵、五右衛門との会話や、寺が出した寺請証文等を元に当時の住職がまとめたものであり、1852年末に書かれた日記である。

前段は5人のたどった10年を簡潔過ぎる程にまとめている。
3人が故郷に帰ってからの大騒ぎの様子が描かれているのが興味深い。

次は藩から送られた、彼らについての書き付けの写しである。
続いて、傳蔵、五右衛門と話す中で得た知識であろうと思われるハワイでの生活が語られる。性風俗の話を聞いた者達はおおいに沸いたことだろう。
さらに、書き付けにまつわる顛末が記されているが、万次郎に対して好意的には書かれていない。
最後はどこの誰との問答とも知れないが、万次郎への評価が低い理由を、問答形式で、菩提寺と檀徒の関係で説明している

全体に、本気とも冗談とも取れる文章ではあるが、万次郎に対する評価の一端を見ることが出来る。

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