江戸時代 鳥島漂流史

西暦 和暦 出身 月日 漂流 滞在 漂着 概要 生還
1675 延宝3年 富国寿丸 小笠原諸島探索中 鳥島発見
1681 天和元年 不明 不明 不明 不明 不明 漂着 不明
1684 貞享元年 不明 不明 不明 不明 不明 漂着 不明
1696 元禄9年 志布志 11月4日 64日 79日 5人 草の新芽、ランビキ、雨水により水を得る。
始めはアホウドリを食べたが、やがてその落ち餌を食べるようになり、アホウドリを採取しなくなる
野生のグミ、釣りで食料を得た
伝馬船を修理、拡張して出港から10日後、静岡に到着
5人
1719 享保4年 遠州新居
大鹿丸
11月30日 56日 20年 12人 佐太夫以下12名。鍋釜などの道具類を持ち込んだことにより、長期の生存が可能になった。鳥、魚以外に、籾を得たことから、少ないながら陸稲を収穫し食料としている。
この時、鳥島は活動期であり、火口から火種を得る。
病死、自殺などで9人が死亡した。
後に漂着する宮本全八船で八丈島に帰着。漂着時、甚八四六歳、水主仁三 郎四十歳、水主平三郎二一歳。
3人
1739 元文4年 江戸堀江町宮本全八船 3月21日 8日 1ヶ月 17人 17人は、先に父島までながされ、そこから伝馬船で北上し、水や食料を探しに鳥島に上陸した。
5月1日、20年前の新居漂民を伴い、伝馬舟に乗り八丈島に到着
17人
1754 宝暦4年 和泉国五郎兵衛 1月 不明 5年 5人 先に漂着した者の遺留品を遣い生き延びた。 2人
1759 宝暦9年 和泉国佐一郎 1月 20日 1日 5人 先の生存者2名、出航直前に漂着した土佐大宝丸18人と25名で伊豆へ帰着した。 5人
1759 宝暦9年 土佐大宝丸 1月13日 10日 0日 18人 最も運がよい集団。先の集団の出航直前に漂着した。 18人
1785 天明5年 土佐赤浦 1月29日 15日 12年4ヶ月 4人 土佐からの漂着者は源右衛門、長平、長六、甚兵衛の四人。1年半の内、3名が死亡。長平のみがただ一人、火もない中で1年半を生き抜いた。 1人
1788 天明8年 大阪 12月8日 3ヶ月 9年4ヶ月 11人 大阪、儀三郎ら11人が漂着。長平と助け合い10年を生き抜く。 9人
1789 寛政元年 志布志 12月28日 1ヶ月 7年5ヶ月 6人 志布志住吉丸6人漂着大工道具などを持ち込んだこれが船を造る大きな力となった3組は力を合わせ伊勢丸を作り、1795年、青ヶ島へ帰着した
後の遭難者のために、船のひな形や、火打ち道具などを残した。
4人
1841 天保12年 土佐宇佐浦漁船 1月7日 7日 143日 4人 船頭筆之丞以下、重助、五右衛門、寅右衛門、万次郎ら5名が漂着。米捕鯨船ホーランド号に救出され、ホノルルへ寄港。万次郎は仲間と離れ、アメリカ本土に渡る。10年後、3人が帰国。 5人
1844 弘化元年 阿波幸宝丸 12月26日 17日 1ヶ月 11人 1月13日漂着。米捕鯨船マンハッタン号により救出される。彼らと洋上を漂ってた千寿丸11人が救助され、浦賀で日本に引き渡された 11人

鳥島はおよそ人間が住むのに適した場所ではない。しかし、この島があったおかげで、帰還を果たした漂流民は、江戸時代だけで80人以上に及ぶ。
万次郎たちが鳥島へ漂着する43年前、土佐赤浦の長平(無人島長平)が鳥島を脱出し、帰郷している。しかし、万次郎一行は長平のことを知らないばかりか、鳥島の存在さえも知らない。長平らの貴重な体験は各地の漁民たちに伝わることがなかった。
この2組の間に鳥島から生還した記録はないが、生還組が漂着した間隔からみれば、10年間に2,3組はたどり着いているようである。43年間には、幾人もの漂流者が鳥島に流れつき、失意の中で命を落としたのだろう。

江戸時代も下がるにつれ、漁民たちのサバイバル技術は明らかに低下しているといって良いだろう。
万次郎等五人も、アホウドリが渡ることを察知しつつも、それを保存食としておらず、救助されたときの様子からしても、翌春まで生き抜くことは不可能だったように思える。救出されたのは幸運だった。

ウエルカムジョン万の会>万次郎資料室>鳥島漂流史