漂巽紀畧 (ひょうそんきりゃく)
「漂巽紀畧」とは、南東に漂泊した記録のあらましと言うような意味であろう。公の記録は別に存在するわけであるから、この書は公的な取り調べに関わった小龍が書いた私的な記録ということになる。


1852年、河田小龍は、吉田東洋の命により、米国から高知に帰国した筆之丞、五右衛門、万次郎の取り調べにあたった。日本語を十分話すことが出来ず、読み書きも出来ない3人の取り調べが、詳細な点でうまく進まなかったため、取調官吉田文次が東洋に相談した結果、オランダ語の知識がある画家河田小龍がその任に着いたのである。

万次郎の知識に興味を惹かれた小龍は、藩の許可を得て、万次郎を自宅に寄宿させ、生活を共にしながら、万次郎に日本語の読み書きを教えつつ、小龍は英語を学びあった。これは、公の取り調べと平行する形で行われた。

小龍は、万次郎が語る異国の話しに驚愕し、蒸気船、巨大な軍艦、鉄道、電信などの科学技術の落差に、この国の将来を不安を覚えたという。

小龍は、万次郎から聞き取った知識をそのままにしておかず、地図、風物などの挿絵を加えて「漂巽紀略」5巻を書き上げた。
本書の序文で、作者の考えを書き加えることなく、文学的な脚色もしていないと記されており、また、挿絵も万次郎の絵を元に、正確に描かれている。ただ、事実の取捨は作者の裁量であり、その他の記録とは少しずつ異なるところがある。
漂巽紀畧は土佐藩主に献上され、その後、たいへんな評判を呼んだという。それは、異国に関する情報の流布が禁止される中で、多くの写本を生ずるに至った点からも事実だろう。
取調官吉田文次は「漂客談奇」を上梓した。


全編を通じ、風向、船の進行方向について、かなり詳細に記載されている。また、世界各地の人々の習俗、都市の様子についても同様である。さらに、出来事の前に和暦、十干、十二支があり、記録性を重視していると言える。

万次郎のスケッチを元に描き上げたという挿絵は、人物や、動植物はまるで本物を見て描いたかのようであるが、ただ、セイウチ、蒸気機関車の画は、それに類するものを知らないためか、どうにも正確さに欠けるものになっている。


口語訳の底本は、中浜万次郎集成-漂巽紀畧(中浜家蔵)=全4巻

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